「財布忘れちゃった」

最近幼馴染から恋人へ昇格した彼女がバックを探りながら声を上げた。

「あ?」

財布を忘れただって?忘れるか普通、そんなもんを。そんな呆れた思いが口調に混ざる。

「出掛ける前にレシートの整頓してたからかな?」

そう呟きながら小首を傾げる蘭は大層可愛らしかったが、それでも此処から動こうとしないその魂胆に俺は肩を竦める。

「なあ蘭。ということは?」

此処は最近オープンしたカフェの開店を待つ列。蘭はここのパフェを食べるのをとても楽しみにしていた。雑誌にデカデカと特集されていたフルーツいっぱいのそれは視覚だけで俺を胸焼けさせてくれたのだった。まったくコイツはよくあんな甘ったるそーなもん食えるよなとある種尊敬の眼差しを恋人に贈ったのは記憶に新しい。

「ごちそうになります」

もしかしたらその忘れ物を理由にこの甘ったるい(憂鬱な)空間から逃げ出せるかもしれないという俺の淡い期待は、蘭のウインクと共に宙に投げられた。





(奢ることに関しては何ら問題ないらしい)








「寒い……」

蘭は深刻そうに、眉間に皺を寄せながら呟いた。
彼女の声に新一は片眉を上げ「そうか?」と返すと、彼が着ていたジャケットを彼女に差し出す。
さも当然とばかりの新一の行動に蘭は頬を染めるも、"新一が風邪引いちゃうから"と尤もらしい理由を盾にジャケットを返そうとする。

「いいって」
「よくないわよ」
「蘭が着てろよ。寒いんだろ?」
「大丈夫だもん」
「さっき自分で言ってたじゃねーか」
「空耳です」
「強情」
「悪かったわね」

出口のなさそうな問答に、些か焦れた新一はジャケットを無理矢理に蘭に被せると、彼女の手を握り歩き出す。

「えっ、あっ……新一っ」
「いいから行くぞ」

真っ赤に染まった頬が恥ずかしくて蘭は顔を附せる。
――でも、もう寒くはなかった。
それは着せられたジャケットのおかげなのか、それともぶっきらぼうに繋がれた手のおかげなのか、蘭には判別がつかなかった。





(中学生くらい)








はあ。ダルそうに伸びをしている同級生を澤田浩一は眺めた。
その視線に敵意のような鋭さが含まれているのは気のせいではないだろう。事実、その同級生は彼の恋敵だった。

「澤田」
「はーい、わかりませーん」

意味不明な数式を彼は一瞬で諦める。少しは考えろと数学教師が眉を潜めるが、それをあらぬ方向に顔を背け無視する。
だって難関大学の入試問題なんて解けるわけねーだろ。考えるだけ無駄無駄、とこっそりと舌を出した。

「工藤」

教師が件の同級生を呼んだ。
はい、と礼儀正しい返事をした彼は教壇に向かい、黒板に数式を並べていく。その迷いのないチョーク捌きに数学教師は満足そうに頷き、多くの生徒は感嘆の眼差しをヤツに送っていた。
嫌味なヤツ。
澤田はそう毒づくと盛大に宙を仰いだ。
こんなのが恋のライバルだなんて全く笑えない。頭脳明晰、容姿端麗。更に語学堪能で運動神経抜群で実家は金持ち(しかも両親共々有名人)、加えて彼自身の名声も上々だ。なかなか並ぶことのない単語がヤツにかかれば簡単に列を成す。
ったく高校生探偵ってそもそもなんなんだよと澤田は溜息を吐く。これで女ったらしや軟派男であったりしたら遣り様によってはもしくは、だが、一人の女に一途ときたもんだ。勝ち目などどこにあると言うのだろう。
澤田が机に突っ伏していると、隣から柔らかい声が降って来た。

「澤田くん、大丈夫?」

毛利蘭。彼の想い人、兼、名探偵の想い人。(まだ恋人ではないはずた。たぶん)
心配そうな視線を向ける彼女は相も変わらず可愛らしい。それに見惚れまじまじと見詰めていると、彼女は困ったように眉を下げるが、その表情も絶妙だ。

「本当に大丈夫?」
「だ、だいじょーぶ。ありがとな、毛利」

少しだけ不自然になった笑顔で返すと、彼女は安心したように微笑むと授業に意識を戻していく。
澤田は彼女と会話をできたことに満足し、頬を情けなく緩ませた。
彼が隣のクラスである彼女と接する機会は少ない。例えばこの補講であるとか。数字なんて大嫌いな澤田が補講を受けているのは毛利蘭との接点を持つためであって、このいじらしさに自分のことながら涙が出そうになる。
ここでの誤算はこの補講に工藤新一も参加していることだが、この際些末な問題だと切り捨てた。
なんて健気な俺、と澤田が頷いていると、難解な数式を完解し教壇から戻ってくる工藤と目が合った。
あからさまに訝しげな眼差しを送ってくる瞳を負けじと見返すと、「お見事なことで」と嫌味たっぷりに恋敵を褒め称えた。





(新一は間違えなく数学は得意)