a chemical formula



「そういえば新一。2時間くらい前に着信入ってたけど何の用事だったの?」

工藤邸のリビングで化学の宿題に勤しんでいた蘭は、向かいのソファで余裕綽々に読書をしている新一に訊ねた。

「………今更かよ」

新一は文章を追っていた視線を蘭に寄越すと呆れたように肩を竦めた。

「だってこの化学式と格闘してたんだもん」
「んなもん簡単じゃねーか」
「なら手伝ってよ」
「せめて教えてって言えよな」

新一の切り返しに蘭は頬を膨らます。
どうにも彼女は化学を苦手としていて、その表情には疲労と諦めの色が見て取れる。
物理よりは化学のがマシだと化学を選択した蘭であったが、それでも複雑な化学方程式は彼女にとっては天敵らしい。ちなみに、新一は物理を選択していたため、蘭だけが課題に苦しんでいるのである。
蘭に甘い名探偵は、仕方ねーなと苦笑すると、蘭からテキストを奪い取り、そこにペンで解説を書き込んでいく。

「大サービスな。今度奢れよ」
「あら。新一が休学してた間のノートを貸してあげた恩を忘れたの?」
「お礼にトロピカルランドに連れてってやっただろ」
「ああ。そんなこともあったわね」

にっこりと微笑む蘭に新一は降参とばかりに溜息を吐くと、ズレかけた話題の軌道を元に戻した。

「んで電話なんだけどよ」
「そうそう。何だったの?」
「別にたいしたことじゃねーよ。オメーが俺んちに寄るか確認したかっただけ」
「なんで?」
「勉強に励む蘭に差し入れでも買ってってやろうと思ってな」

新一はテーブルに置かれたドーナツを指す。

「結局電話は繋がらなかったが、まあ、オメーの鞄には苦手な化学の宿題が大量に入ってたからな。85パーセントぐらいの確率で此処に寄るだろうってことで、」
「買ってきてくれたってわけね」
「そーゆうこと。感謝しろよ」

蘭は渦中のドーナツを一口食べると「美味しい。ありがとう」と目尻を下げた。

「そういえば、新一」
「今度は何だよ」
「新一が休学してたとき、途中までは非通知着信だったじゃない?」
「ああ」
「あれって今考えてもすっごく他人行儀だよね」
「そうか?」

当時の話になると、どうにも新一に分が悪くなるため、彼は言葉少なに返すも、蘭はそんな彼を意に介すことなく続ける。

「思ったことあるもの。私に電話されるの鬱陶しいんじゃないかなーとか、本当はメールすらしてほしくないんじゃないかとか」

ちょこっとだけどね、と苦笑しながら蘭は紅茶に手を伸ばした。

「え」
「その頃は新一が私を好きだなんて全く知らなかったわけだし」

"全く"は鈍感すぎじゃねーか、と新一は密かに肩を落とす。
そりゃあ素直な態度に出ることは滅多になかったが、幼い頃からずっと大切に想ってきた女にそう断言されて面白いわけがない。

「鈍感女」

むすっとした表情を露に新一は呟く。

「なによ。新一が悪いんじゃない?」
「まあ、そうだけどよ」

非通知設定にすることで、蘭がどう考えるか失念していたことは認めよう。大概自分も恋愛音痴だな、と新一は心中で嘆いた。

「懐かしいな」

不意に蘭の表情が憂いだ。
彼女はたまにこういう顔をする。それは主に新一が不在であった頃の話をしている時だ。
あの頃、蘭の泣き顔をコナンとして幾度か見てきた新一は表情を歪めた。

「………ごめんな」
「なんで謝るの?」
「淋しい思いさせて」

蘭は曖昧に首を横に振る。

「いいよ。新一も、大変だったんだし」

ふと広がる沈黙。
淋しげに微笑む蘭に新一は顔を寄せる。蘭はゆっくりと眼を附せ、そのままふたりの唇は重なった。

「好きだ」

唐突な新一の告白に蘭は眼を丸くする。

「………いきなりなんなのよ」
「なんとなく?」

僅かに頬を染める蘭を新一は愛しげに眺めると、細かく解説を書き込んだ化学のテキストを返した。





(やまなし、おちなし)